菅原院天満宮神社について

ご祭神と由来

ご祭神

菅原道真公とその父是善卿、祖父清公卿を祀る。親子三代の邸宅、道真公生誕の地と伝えられる。菅公聖蹟二十五拝の第1番。通称烏丸の天神さん。

由来と歴史

当菅原院天満宮神社は「学問の神様」として知られる菅原道真公がお生まれになった霊地であり、道真公だけではなく、曾祖父・古人朝臣、祖父・清公卿、父・是善卿がご住居とされておりました地であります。古人朝臣は桓武帝に、清公卿は嵯峨、淳和、仁明の三帝に、是善卿は文徳、清和の両帝に奉仕し、栄職にあったので、この邸宅も受け継ぎ住まわれ、世に菅原院と呼ばれたのであります。拾芥抄によれば菅原院は勘解由小路(現在の下立売通)烏丸の西一町菅贈太政大臣の御所、或は参議是善卿の住居といわれた。当時歓喜光寺と号し、北野祭の日神氏此所に来りて批杷を神に奉奏され、また古図には烏丸、室町通、下立売通、椹木町通に囲まれた邸地を菅原院と記載され、住古は境域の広大であったことがわかる。又袋草子国宝北野縁起(藤原信実朝臣筆)菅氏録によれば、菅原院は是善卿の旧邸地にして菅公は此の処に於いて御誕生あらせられ爾来菅公このところを邸地とし給ひ、ついで菅家のために、此地に歓喜光寺を創建されましたが後故ありて六條道場に移転。残された殿舎に道真公御誕生の地である事を持って一社を設け、学祖人として菅原道真公を本座とし御父是善卿と御祖父清公卿を奉祀して古より断ゆること無く今に至り実に是れ菅公御発祥の霊地にして聖蹟廿五拝の第一にして今も尚産湯の井及び天満宮御遺愛の石燈籠一基が残っております。

御産湯の井

天満宮御遺愛の石燈籠

菅原道真公と丑について

  • ① 道真公がお生まれになったのが承和12年(845年)乙(きのとの)丑(うし)6月25日つまり丑年の生まれである。
  • ② 道真公左遷の時に政敵であった藤原時平の命を受けた笠原宿禰たちが都落ちしてる最中の道真公に斬りかかろうとしたがその際に丑が松原から飛び出し笠原宿禰の腹を突き刺して道真公を救った。
  • ③ 道真公が北山へ茸狩りの宴をされた時どこからともなく丑が出てきてすり寄って来たのでかわいく思われ館につれ帰られた。
  • ④ 道真公は遺言として自分の遺体を乗せた牛車が進むままに埋葬地を決めさせた。

道真公と梅の関係

天満宮(天神様)の御神紋に梅が使われたり、天満宮境内に梅の木が多いのは道真公が、梅を愛好されたにほかならない。御歌(和歌)に五歳の時に庭の梅をながめて

“美しや 紅の色なる 梅の花
       阿呼が顔にも つけたくぞある“

また大宰府へ西下される日

“東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花
       あるじなしとて 春な忘れそ“

と詠まれた。その梅は中国が原産といわれ、遣唐使(奈良時代)に中国文化と共に多くの草木が持ち込まれ梅の木もこの頃に輸入されたものと考えられる。平安遷都後は紫宸殿の左近には、桜ではなく梅が植えられ寒い時季に長期間花を咲かせたところから神秘的な植物として珍重された。「うめ」は「鳥(う)梅(めい)」の発音が変化したもので、天平年間に太宰師大伴旅人の官邸で梅花の宴が催された。多くの梅花の歌が詠まれています。このように道真公と梅の因縁は最初から浅からぬものがあったように思われます。道真公が大宰府へ西下される旅立ちが2月1日の梅のほころぶ頃で逝去された2月25日は梅花満開の時季、憂愁のうちに配所で永い眠りにつかれたのであります。